金剛院の仏さまや建物の紹介をしています。

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何があっても大丈夫地蔵尊
境内の松枯れした残木。数年放っていましたが、高木勇治さん、当時83才に出会い、製作を依頼しました。 何か見本が有ればと言われ、とっさに、手元にあった、陶芸家、田井さん製作のかわいい傘地蔵を渡しました。 重い重い松の木を、 […] -
立ち直り不動尊
石材店の店頭に、半分に割れて放り出されていた、このお不動さま。聞けば割れたので廃棄されると。それは勿体ないと.譲り受けました。見れば、ご本体も宝剣も無傷です。割れたほこら部分を接着してもらい境内に奉安しました。 一度割れ […] -
苦行の釈迦
京都国立博物館で、出逢った、ガンダーラから運ばれた苦行像。その凄まじさに圧倒されてしまいました。聞けば、本物のようなレプリカが製作できると言うので、注文してしまいました。 何度も修正を重ねました。大きさは1.2倍です。出 […] -
仏足石
住職になりたての頃、仏足石の存在を知りました。不思議に思いました。仏様を拝む時は、お顔やお身体に拝むのに、なぜ足の裏を。一番目に付かず一番汚れるであろう足の裏です。でも考えてみれば、人は一歩一歩足で歩くしかないのです。そ […] -
撫で仏さま
元々は、水子地蔵として、悲心さまの足元にありました。30年の風雪に、金箔が剥げ、傷み烈しいところ、篤志の方が、我が子のごとく思い、修復していだだきました。よく見まると、頭の格好が実に撫でたくなるようなのです。 それで撫で […] -
三界萬霊等塔 地蔵供養尊
三界萬霊、男女も人種も、虫や草や木も、自然界のあらゆるものは、全て縁から生じるもので、その存在は等しく、差別の無いものと仏教は見ます。 その心を持って、金剛院の何世代か前の住職が祀ったものです。人はすぐ驕ろうとしますが、 […] -
山門
山門。 金剛院が本多冨昌公の時代、当地に移ります。移設された当時のままの唯一の建物です。江戸時代初期の様式を伝えているそうです。扁額は、永平寺五十世玄透禅師揮毫、照心と彫られています。故に、以後、照心門とします。 お寺を […] -
本堂
間口八間半、総欅、江戸時代後期の建造物です。なんの飾りもなく、質実剛健とした,禅宗然とした造りです。 本尊さまは、釈迦三尊。中央に釈迦。左右に文殊菩薩普賢菩薩が祀られます。江戸時代中頃、京都京極の仏師のや銘が内側に記され […] -
十六羅漢像
本堂右奥に、江戸時代後期に奉安された十六羅漢像が修復され、祀られています。 羅漢さまは修行を積まれ、仏の位に上がるところを、あえて在野にあって、庶民と共に喜怒哀楽を共にされると言われます。 澄まし顔あり、笑い顔、怒り顔あ […] -
観閑八角堂
悲心さまが立ち上がり、その前に休憩所があれば、と話していたら、焼けた首里城を建てた藤田社寺さんが、それはいい、と乗っていただき、余り材があるので、それで造りましょうと、格好の整った八角堂が出来上がりました。 天井周りには […] -
六地蔵堂
山門脇に佇んでおられます。やや小ぶりながら、多くの方々に拝まれ、また多くの方を拝んでおられます。 -
掲示板
道路改修で新しい掲示板が必要になりました。またまた藤田社寺さんが、いいのがあるからと、作ってくださいました。大阪のとあるお寺の木戸口門だったとのこと。改修して、掲示板に変身です。毎月伝導句を飾ります。 -
二宮金次郎像
勤労と勤勉の象徴である尊徳像。以前は各学校に安座されていました。この像は、市内国高小学校に、以前の森市長さんが、母校を思い、後進の生徒さんの為に寄進されたようです。多くは石造りですが、めずらしく陶製の像です。時代の流れに […] -
土塁跡
七十間四面の境内を囲むように、三面が土塁で覆われていたそうです。現在は本堂裏西側に土塁跡がとどめます。当初の金剛院城趾の跡でしょう。もうほとんど埋まりましたが、土塁内側には堀も掘られていたようです。昔はどのようだったので […] -
墓地
本堂裏に、旧墓地、北側には新墓地があります。多くの各家の亡き御霊が祀られています。観音さまに見護られる永代墓地、樹木葬なども整っています。 ご相談下さい。 -
観世音堂(観音堂)
江戸時代中期の建築物です。他から移築されたとも聞いています。西国三十三観音、信州善光寺俵観音、そして、金剛院では最も古いと言われる十一面観音像などが祀られています。 戦後すぐには、当時住宅不足で、満州などから引き上げた家 […]