秋をどう見られるのだろうか。

秋は境内。

前回、紫式部も越前のこの地から、

今と同様な秋空の中にあったのでは、と書きました。

秋の山野草を見ていると、

ふっと、道元禅師も、近くの北国街道を歩いて京と越前を往復されたことかと。

そこを歩かれる道元禅師が思い浮かぶ時、道元禅師が身近に感じられてしまいます。

なんと不遜かな。

思いは至り、禅師も同じ秋の中に有られたんだろうなぁ。

ありがたいなぁ。

鳥を見て、鳥が空を飛ぶのではない、

空が空を飛ぶ と見られた道元禅師は、

この秋をどう見られたのだろうか?

秋が来たから草木が秋色になるのだろうか?

草木が秋色になるから秋になるのだろうか?

秋が私なのか、

私が秋なのだろうか?

来月参拝に行く、奈良の御仏は、秋をどう見られるのだろうか。

何か面白いなぁ。

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諏訪 普現

昭和24年10月1日 小田原にて生まれる。6才から武生の庵寺で育つ。昭和53年28才福井市霊泉寺住職。翌年、鯖江市長禅寺兼務住職。昭和62年から平成元年にかけ、禅林寺、長禅寺同時期に本堂再建。平成2年より武生市金剛院、福井市禅林寺住職。同時に伝道掲示板書き始める。平成30年、禅林寺に慈恩立ち直り観世音石像建立。 現在、福井刑務所教誨師。