先日、あろうことか通夜読経の折、神秘体験?をしてしまいました。
亡き人は高齢の方でした。亡き人の一期に心至しながらゆっくりと読経が進むうちに「あれっ、私がお経になっている。葬場全体がお経に包まれている」との感覚になりました。
亡き方も葬場の方も共に、お通夜の時にこんな至福なお経に包まれるなんて、なんて幸せなことなんだろうと思いながら読み浸りました。
これは神秘体験なのでは?そう思う伏線があります。
読んでいるお経は、道元禅師の正法眼蔵八大人覚の巻です。そのお経の一字一句は800年近く前、道元禅師が筆でかかれたそのままの一字一句です。
そしてその分の大本は2600年も前に翻訳されてはいるものの、お釈迦様自身が語られた言葉そのものといわれています。
ひょっとすると、それはここに道元禅師がおられるということではないだろうか。ひょっとすると、お釈迦様もここに?と読経しながらの勝手な思いが湧いてきていました。
そんな勝手な思いが頭の中をぐるぐると、これが伏線になったものか。なんだか私がお経を読んでいながら、私が読んでいるのではない。道元禅師やお釈迦様が、私をして読ませているのでは。だからお経に包まれる。やれやれ、なんということだろうと、後でこの時の体験を思い返しました。
すると、あにはからんや、すぐに神秘体験の原因に思い当たりました。なんのことはなかったのです。マスクです。自分の声がマスクでこもり、あたかも葬場全体がお経に包まれたかのような「盲聞錯覚」に至ってしまったのでしょう。
これが私のお粗末な神秘体験の結末です。一件落着です。
道元禅師もお釈迦様も、あるかないか分からないようなものに心奪われるな、地に足をつけよ、と。ハイ申し訳ございません。
でも、こんな神秘体験?度々浸りたい。